古関裕而とは、昭和の日本の音楽界を支えた作曲家で、現在も多くの人々から愛されている楽曲を作曲した人物です。2020年には彼とその妻・金子の半生をモデルにした朝の連続テレビ小説「エール」が放映されており、古関裕而がモデルの主人公・古山裕一役には俳優の窪田正孝さんが起用されております。, 彼は、行進曲や応援曲、軍歌などを多数の作品を手掛けております。中でも有名なのは、全国高等学校野球選手権大会のテーマソングである「栄冠は君に輝く」です。8月の甲子園大会期間中に、この楽曲を耳にした方は多いのではないでしょうか。, また、読売巨人軍の公式応援歌「闘魂を込めて」、阪神タイガース公式応援歌「六甲おろし」など、野球ファンの方なら一度は聞いたことのある応援歌も作曲しております。その他、東京オリンピック行進曲「オリンピック・マーチ」など、スポーツと深い繋がりのある楽曲を多数手がけております。, この記事では、「闘魂を込めて」など古関裕而楽曲に子供のころから慣れ親しんできた筆者が、古関裕而の生涯や周辺の人物との関わりについて、ご紹介いたします。, 古関裕而は4人家族の長男として生まれました。裕而の父親である三郎次は、蓄音機を購入し、浪曲などを好んで聞いており、裕而が音楽好きになったのも父の影響からでした。しかし、第一次世界大戦の煽りや三郎次が友人の借金の保証人になったために、「喜多三」は経営難になってしまいました。, 裕而が上京後、三郎次は隠居し、好きな歌を歌っていたなど悠々自適な生活を送っております。跡を継いだ弟の弘之は福島市の新町の方に新たに小規模な「喜多三」を開店させ、店を続けておりました。父である三郎次は1938年にこの世を去りました。, また、母であるヒサは、1937年にヒットした「露営の歌」について裕而に手紙を送っており、近所の人々から褒められて嬉しかったという内容を送っております。その後、1943年にこの世を去り、この時、従軍慰問でベトナムにいた裕而は帰国を申し出るも受け付けられず、葬儀は1か月後に執り行われたそうです。, 古関裕而の代表作として有名なのが、「全国高等学校野球選手権大会」のテーマ曲である「栄冠は君に輝く」です。この曲は、1948年に学制が変更となり「全国中等学校野球選手権大会」から現在の名称に代わる年であり、30回記念大会という節目の年に製作された楽曲です。, 作詞は朝日新聞が募集した5252篇の中から、石川県の作詞家・加賀大介の詞が採用されました。ちなみに、採用されたときは加賀の婚約者である高橋道子の名前だったのですが、これは加賀が懸賞金目当てだと思われたくなかったため名前を使用したと、後に真相を語っております。, 古賀政男は古関と同時期にコロムビアレコードへ入社した同期の作曲家です。福岡県で生まれ、大正琴やマンドリンに親しみ、明治大学マンドリン倶楽部の創設などにも関わりました。その後、古賀はコロムビアレコードへ入社し、歌手である藤山一郎の楽曲「丘を越えて」などを手掛け、様々なヒット曲を手掛けました。, その、多くの楽曲は「古賀メロディー」として親しまれ、日本の音楽界に多大な影響を与えました。73歳の時に心不全で逝去しますが、その功績を称えられ、王貞治に次ぐ二人目の国民栄誉賞を受賞しました。同期の古関とは互いに夢を語り合い、互いに切磋琢磨した良きライバルのような関係性だったと言われております。, 1929年7月に、当時川俣銀行の銀行員であった古関は、イギリス・ロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」を応募し、これが二等入選。福島新聞で、大々的に報じられ、日本人初の国際的な作曲コンクールの入賞を果たしました。, しかし、これは「竹取物語」が国際現代音楽協会の主催する現代音楽祭作品の公募にてイギリス支部へ推薦されたのを古関が入選と間違えたという説も出ております。ですが、この入賞は日本でも大々的に報じられ、当時豊橋にいた金子と文通するきっかけにもなりました。, 上記のトピックでも記述した通り、現在も甲子園のテーマ曲として使用されている「栄冠は君に輝く」や、NHKのスポーツ中継のテーマ曲「スポーツショー行進曲」など様々な楽曲を発表しております。甲子園を取り扱った番組などで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。, また、スポーツ以外には、ラジオドラマや映画などの音楽も務め、ラジオドラマ「君の名は」ではドラマ放送中にオルガンを使って生伴奏をつけたこともありました。数多くの代表作を生み出した偉大な作曲家です。, 1979年にこれまでの功績を称え、古関は福島市の名誉市民第一号として選ばれました。そして、これを記念し、1988年には福島市音楽堂に隣接した場所へ福島市古関裕而記念館が設立されました。しかし、この頃、古関は入院していたために、この記念館を訪れることはなかったそうです。, その後、生誕100周年を記念した2009年4月にはJR福島駅の発車メロディーに古関が作曲した「高原列車は行く」「栄冠は君に輝く」を採用し、8月には駅前にモニュメントを設置しました。それだけ、故郷である福島市が、古関の事を誇りにしているのですね。, 生涯にわたり、楽器を使わずに作曲を行っていたという古関裕而。子供のころから作曲を独学で勉強していた古関だからこそ、理論ではなく感覚で作曲を行っていたのですね。, この理解者とは共に仕事をした劇作家・菊田一夫のことを指しております。菊田とは36年間にわたって、ラジオドラマや演劇を手掛けてきた、まさに盟友と言える間柄。菊田が先に亡くなったときは大きな衝撃を受けたそうです。, いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます。, 故郷の自然が、古関メロディーの源流となりました。それだけ、故郷である福島市に思い入れがあったのでしょう。, 古関は早稲田大学の応援歌「紺碧の空」と、慶応大学の応援歌「我ぞ覇者」の作曲を手掛けております。この2校は大学野球において「早慶戦(慶応側からは慶早戦)」と呼ばれ、長年にわたるライバルであり、その応援歌をどちらも古関が手がけているというのは不思議な間柄ですね。, また、プロ野球では巨人軍の球団歌「闘魂を込めて」、阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」、中日ドラゴンズの球団歌「ドラゴンズの歌」を手掛けております。巨人・阪神戦は伝統の一戦とも謳われる長年のライバルチーム同士で、古関自身は球団関係に興味がなく、作曲依頼があればどこでも引き受けていたそうです。, 上述のスポーツ楽曲や、ラジオドラマ、映画音楽に加え、軍歌、校歌、なども手掛けております。また、変わったところでは、西武鉄道、丸井、不二家などの社歌、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の放送開始・終了テーマ曲、緑の羽根募金の主題歌などがあります。, 生涯に五千曲ほどを作曲した古関ですが、作曲するにあたり音楽を一切使わなかったと言われております。主に五線譜と向かい合うことで、自然と頭の中に楽曲が思い浮かび、それをペンで書き出すという手法をとっていたと、自伝に記述しております。, 福島県福島市大町の呉服屋「喜多三」の長男として古関裕而は生まれました。ちなみに、古関裕而はペンネームであり、本名は「古關勇治」という名前です。同じ大町には、作詞家の野村俊夫が住んでおり、古関と共にいくつか楽曲を発表します, 小学校に上がると、担任であった遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の授業に力を入れていたことから、ますます音楽へ興味を持つこととなります。また、10歳のころには楽譜を読めるようになり、同級生から作曲を依頼されたこともあったそうです。, 商業学校へ家業の呉服屋を継ぐために入学するも、学業よりも作曲に熱中しておりました。この時期、常にハーモニカを所持し、独学で作曲法を学んでおりました。, 卒業間際、古関は日本有数のハーモニカバンドであった「福島ハーモニカソサエティー」に入団いたします。このバンドに入ったことで、フランスやロシアの音楽を知り衝撃を受けたそうです。また、このバンドで仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組へ出演したこともありました。, 母方の伯父に紹介され、川俣銀行(現・東邦銀行川俣支店)へ勤務することになりました。また、この頃、ロシアの音楽家リムスキー=コルサコフの弟子であった金須嘉之進に師事を受け、聖歌や管弦楽について学んでおりました。, 銀行員時代も趣味で作曲していた古関。ある時、イギリスロンドンのチェスター楽譜出版社作曲コンテストに舞踊組曲「竹取物語」を含む5曲を応募し、「竹取物語」が二等に入選しました。このことは、新聞で日本中に報じられました。, この報道を知った愛知県豊橋市に住んでいた内山金子は、古関へファンレターを送り、これがきっかけで2人は文通を始めます。そして、1930年に古関は金子のいる豊橋に来訪し、そのまま結婚いたします。2人の間には、3人の子供が誕生しました。, この年の9月に、山田耕筰の推薦もあり、古関は日本コロムビアレコードの専属作曲家として入社します。コロムビアでは、作曲家の古賀政男、同郷の作詞家野村俊夫、同郷の声楽家伊藤久男、等と知り合うこととなります。, 1931年6月に早稲田大学の第六応援歌(現在は第一応援歌)である「紺碧の空」の作曲を依頼されます。これは、応援部のリーダー幹部であった伊藤久男の従兄弟の伊藤茂に推薦され、作曲を一任されたそうです。, 上京後、なかなかヒット作に恵まれず、不遇の時代を過ごしておりました。そして、1935年に新民謡調の楽曲「船頭可愛や」がヒットし、ようやくヒット作曲家として世間に認められるようになりました。, 1937年には軍歌「露営の歌」を作曲し、こちらもヒット曲となります。しかし、1938年にコロムビアから従軍の依頼があり、従軍音楽部隊として西城八十とともに中国へ渡りました。この時期、芸能関係の方は軍部の要請で、各地で慰問をしておりました。, 映画「暁に祈る」の主題歌として作曲された楽曲で、作詞は野村俊夫、作曲を古関が担当しました。兵隊の士気を上げる軍歌として作曲されましたが、その歌詞は反戦を歌ったもので、戦争へ行きたくなかった戦中派の人々の間で広まり、ヒット曲となりました。, NHKの前身である日本放送協会は、古関に南方慰問団への参加を依頼し、古関はこれに参加しました。徳川夢声を団長とする慰問団は、ジャワ、シンガポールなどで前線の兵士たちを慰問し、古関は「露営の歌」などの指揮を執りました。, 第二次世界大戦中、インパール作戦の兵士たちを励ます歌を作って欲しいと、軍部から脅迫まがいの依頼を受けた古関はビルマへと飛び立ちました。そこで、作家である火野葦平が作詞した「ビルマ派遣軍の歌」に曲をつけ、前線の兵士の士気を上げました。この最中、日本では古関の母が病気のために逝去しました。, この年の3月、硫黄島が陥落し、その数日後に古関の元へ赤紙が届きました。当時、36歳は老兵であったため、日本軍が逼迫した状況であったのを物語っております。そして、古関は横須賀海兵団に派遣され、軍隊生活を1か月ほど経験します。, 終戦後、長男の正裕が誕生しました。また、戦後の日本の暗い雰囲気から立ち直れるような明るい楽曲として鎮魂歌「長崎の鐘」や、菊田一夫と組んだラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」等を発表しました。, 「全国高等学校野球大会」が30回目となる節目を迎えた年に、古関は新しい大会テーマソングとして「栄冠は君に輝く」を作曲し、現在まで甲子園のテーマソングとして使用されております。, 菊田一夫が脚本を担当したラジオドラマ「君の名は」の劇中音楽を、古関が担当することになりました。当時、ラジオドラマも生放送だったため、古関はハモンドオルガンで毎回即興の伴奏をつけていたそうです。, NHKラジオ第一放送でラジオドラマ番組として「日曜名作座」の放送が開始され、古関はテーマ曲と劇中音楽の指揮を担当し、健康上の理由で降板するまで30年間、同番組の音楽を担当しました。, 高度経済誌長期の真っただ中、東京で初の五輪が開催されました。その、五輪の開会式と閉会式の日本選手団入場の際に使用された行進曲「オリンピックマーチ」の作曲を古関は担当しました。明るい曲調で、人々に希望を与える楽曲となっております。, 古関のこれまでの功績が称えられ、「学術や芸術・文化分野において優れた業績を挙げた方」に送られる紫綬褒章を受章しました。音楽家分野では、他にもサトウハチロー、淡谷のり子、筒美京平といった方々が受章されております。, アジア初の冬季オリンピックが札幌で開催され、その行進曲として「純白の大地」を古関が作曲し、開会式で実際に古関が指揮を執りました。また、この年から始まったフジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」に審査員として出演しておりました。, 古関の作曲家生活50周年を記念し、故郷である福島市は「福島市名誉市民」第一号に推戴しました。式典はこの年の4月5日に行われ、関係者約100名以上が集まった壮大な式典となりました。, この年の7月23日、妻である古関金子が乳がんの全身転移により死去しました。声楽家として活躍した彼女は、晩年は、声楽を辞め、長男・正裕の子育てに専念したと言われております。, 健康上の理由から、「日曜名作座」の音楽を降板し、作曲家としての活動を引退することとなりました。また、「日曜名作座」を司会の森繁久彌、加藤道子と共に3人で30年間続けたことを称え、視界も含め放送文化基金個人部門賞を受賞いたしました。, 傘寿の誕生日を迎えてから一週間後、古関は川崎の聖マリアンナ医科大学病院にて、脳梗塞のため逝去しました。没後、国民栄誉賞を打診されるも、遺族の意向により、これを辞退いたしました。, 古関裕而は福島県福島市大町にある老舗呉服店「喜多三」の古関家、長男として誕生しました。現在、裕而の生家であった「喜多三」跡地には「古関裕而生誕の地記念碑」が建っております。また、裕而の息子である正裕さんが「古関裕而を歌い継ぐユニット」というコンセプトの元、「喜多三」という音楽ユニットを結成しております。, 生家にはまだ一般家庭には珍しかった蓄音機が置いてあったそうです。特に、父親が浪曲などを好んで聞いており、古関も蓄音機の隣でお絵描きなどして音楽に慣れ親しんでおりました。古関は、父親の影響を受けて、作曲の道を志すようになります。, また、故郷である大町の近所には鈴木喜八という5歳上の少年がおりました。古関ともよく遊んだ少年で、この鈴木が後に作詞家・野村俊夫として古関と共に「福島行進曲」「暁に祈る」「若き日のエレジー」といった楽曲を世に送り出すこととなります。, 7歳の時に福島県師範学校附属小学校(現・福島商業高等学校)に入学します。担任であった遠藤喜美治は音楽の授業に力を入れるほど、音楽好きの教師であったそうです。この影響で、小学生のころから独学で作曲を始め、10歳の時には楽譜が読めるようになりました。, その後、山田耕筰の「作曲法」などを作曲を独学ではじめ、次第に同級生から詩に曲をつけるよう依頼されるようになりました。小学校を卒業後、古関は家業を継ぐために1922年に旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)へ入学しました。ですが、商業学校に上がっても勉学より作曲に最も熱中しておりました。, 入選の報道がきっかけで、愛知県豊橋市に住んでいた内山金子は古関へファンレターを送りました。これを機に、2人は文通を始め、遠距離恋愛へと発展していきました。そして、知り合ってから3か月後の1930年6月に古関は豊橋へ出向き、実際に対面。そして、金子はそのまま古関の故郷である福島へ着いていき、2人は結婚しました。, 2人の夫婦仲は大変良く、晩年までおしどり夫婦として有名でした。2人の間には二女一男の子供が生まれ、2女は戦前に生まれ、共に疎開生活などを経験しました。長男である正裕は戦後に生まれ、母である金子が声楽家であったことを子供のころに知らなかったそうです。, 同年9月に、コロムビア(現・日本コロムビアレコード)の顧問を務めていた山田耕筰の推薦により、古関はコロムビアの専属作曲家として迎え入れられることになりました。これに伴い、古関は川俣銀行を退職し、妻と共に上京することになりました。, 上京した古関の元へ、早稲田大学から新しい応援歌の作曲依頼が舞い込んできました。当時、大学野球において「早慶戦」と長きにわたる慶応との対決に、早稲田大学は1927年から負け続け、1930年には慶応に春秋4連敗を喫しておりました。, 当時、慶応野球部の原動力となっていた要因の一つに「若き血」という応援歌がありました。これに対抗するべく、早稲田は新たな応援歌として「紺碧の空」の作曲を若手の古関に依頼しました。そして、1931年に披露され、早稲田は見事勝利し、現在は第一応援歌として親しまれております。, 上京後、数年間はなかなかヒット作に恵まれず、スランプの時期に入っていました。コロムビアから最初に出したレコード「福島行進曲」も、思うように売れず、苦労をしていたようです。一時期は、コロムビアから契約解除を持ち出されるほどだったそうです。, 1935年、古関が26歳の時に発売した「船頭可愛や」がようやく初のヒット作となりました。この歌は、新民謡調と呼ばれ、大衆に親しみやすい楽曲としてヒットしました。古関は自伝にて「私は初めて、自分で作曲した曲がどこへいっても流れている喜びを知った。」と回想しております。, 「船頭可愛や」のヒット以降、「大阪タイガースの歌(現・六甲おろし)」など、様々なヒット作を手掛けておりました。ちなみに、現在「六甲おろし」は12球団の中で一番古い球団歌となっております。その中で、古関は当時流行していたラジオドラマの音楽を担当することになりました。, 最初に担当した作品は村上浪六原作の「当世五人男」という作品でした。この時、放送局にて劇作家の菊田一夫と初めて出会いました。後に、古関は菊田と共に戦後のラジオドラマや演劇など、日本のエンタメ業界に大きな影響を与えることになります。, 次第に激化する日中戦争。古関は1938年に軍部から従軍要請を受けました。この当時、前線の兵士に娯楽を送るために、芸能関係者に従軍を要請するケースがいくつかありました。落語家の5代目古今亭志ん生は慰問で訪れた満州で終戦を迎えたため、帰国するのに一苦労したという逸話があります。, 古関は、西條八十と共に従軍音楽部隊として中国へと渡りました。そして、前線の兵士達に自身の楽曲を指揮し、演奏を終えると兵士達は歓声を上げました。この歓声を聞いた古関は、思わず涙が溢れてきたと回想します。, 中国から帰国後、古関に新たな楽曲の依頼が舞い込みました。それは、松竹映画「暁に祈る」の主題歌の作曲です。この「暁に祈る」は、軍馬を中心にした兵士の夫とその妻の物語を描いた作品で、軍馬への関心を高めるために製作された映画でした。, 古関は、同郷の野村俊夫と伊藤久男と共にこの楽曲を製作しました。制作にあたり、野村は軍部から作詞を7回も書き直しささせられたという逸話が残っております。この楽曲を作るにあたり、古関は中支戦線での体験を基に、望郷を想う兵士達を思い浮かべながら作曲したと自伝に記述しております。, 1942年、戦争が激化する中、古関は放送協会から南方慰問団への参加を要請されました。この慰問団は、古関のほかにも、吉本興業所属の芸人で結成された「わらわし隊」などが存在し、ジャワ、ビルマなどの東南アジア戦線の兵士達への慰問を行いました。, その後、1945年、硫黄島陥落から数日後、古関の元へ赤紙が届きました。それは、作曲家ではなく兵士として横須賀海兵団として従軍せよという指令だったのです。古関は、海兵団に入隊し1か月ほど軍生活を送りました。その後、福島で疎開生活を送ることとなりました。, そして、古関の元へ朝日新聞社から楽曲の依頼が舞い込みました。それは、学制改革により「全国中等学校野球大会」から「全国高等学校野球選手権大会」へと変更され、第30回という記念すべき年ということで新たな楽曲を作って欲しいというものでした。, 歌詞は公募の中から加賀大介の詞が採用され、古関はその詞に作曲しました。この「栄冠は君に輝く」が制定されてから30年後、古関は甲子園へと招待され、「栄冠は君に輝く」の合唱を目の当たりにし、感激したそうです。ちなみに、古関の母校である福島商業高校も出場し、見事勝利を飾り、古関の前で、自身が作曲した校歌を披露したそうです。, 1952年に菊田が脚本を担当したラジオドラマ「君の名は」の放送が始まりました。この作品は、当初は主人公たちの戦争体験記をシリアスに描いた作品だったため、あまり人気がなかったようです。その後、春樹と真知子の恋物語へと展開すると次第に人気を集め、ラジオドラマ始まって以来の大ヒット作となりました。, 古関はこの作品でも音楽を担当し、ドラマの生放送中にオルガンで即興で劇中音楽を担当されておりました。あまりの人気ぶりに「ラジオの時間には街の銭湯の女湯がガラ空きになる」と言われておりましたが、これは松竹による宣伝広告であったと古関は自伝で回想しています。, 1961年には菊田と共に、映画「放浪記」の劇中音楽を手掛けるなど、映画音楽を担当するようになりました。中でも、有名な楽曲として挙げられるのが「モスラの歌」です。モスラは、1961年に東宝で公開された日米合作の特撮怪獣映画で、ゴジラ、ラドン、に続き「東宝三大怪獣」と称される作品です。, この歌は、劇中で小美人がモスラを呼び出す歌として歌われ、後の作品でもモスラのテーマソングとして使用されました。また、2019年にアメリカで制作された「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」では、モスラの歌のアレンジバージョンが劇中に登場し、EDクレジットには古関の名前が掲載されております。, 1964年、戦後復興の象徴として東京五輪が初開催されました。古関は、この東京五輪の開会式と閉会式にて行われる選手団入場の際に使用される行進曲として、「オリンピックマーチ」を作曲しました。この、「オリンピック・マーチ」の作曲依頼を受けた時、嬉しさのあまり、家族に話していたそうです。, 古関は戦時中の軍歌を創作したことで、失われていった命があることに落胆し、戦後、人々に生きる希望を与える楽曲を数多く作曲してきました。その集大成ともいえる楽曲が「オリンピックマーチ」であり、この楽曲と共に、日本は国際社会へと復帰を果たしました。, 1962年、球団設立30周年を記念して新たな球団歌を読売新聞で公募しました。そして、20892編の中から椿三平の詞が選ばれ、古関が作曲、現在でも使用されている3代目の球団歌「巨人軍の歌(闘魂込めて)」が発表されました。, ちなみに、古関は巨人軍の初代応援歌「野球の王者」も担当し、巨人軍の球団歌を3曲中2曲を担当したことになっております。また、作詞を担当した椿三平は広島カープの初代球団歌「広島カープの歌」を作詞した池田誠一郎と同一人物なのです。, 福島市は1957年に、名誉市民条例を制定しました。そして、制定から22年経過した1979年に、作曲家生活50周年を迎えた古関のこれまでの功績を称え、名誉市民第一号として推戴し、3月に議会で推戴が決定されました。, 推戴式は同年の4月5日に行われ、古関は妻の金子とともに出席しました。式典には、100人以上の関係者が列席し、古関は「いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます」とスピーチで述べました。, 1989年、傘寿を迎えてから数日後の8月16日に、古関は脳梗塞のため80歳で逝去しました。この訃報を受け、甲子園では古関を偲び大会歌である「栄冠は君に輝く」を流し、その死を偲びました。曲が流れている間、その死に涙する年配の方がいたと、当時の朝日新聞に記述されております。, 没後、国民栄誉賞の受賞を検討されたのですが、「亡くなった後に授与する意味はあるのか」という遺族の意向により、これを辞退しました。そして、生誕100周年を2009年には古関作曲の「栄冠は君に輝く」「高原列車は行く」などが福島駅の発車メロディーに採用されるなど、今もなお、愛され続けております。, 古関裕而の自伝本。作曲した時の想いや、作品背景、時代背景などが記述されている作品です。曲に込められた思いなどについて知ることが出来る1冊です。, 古関裕而と金子の長男である正裕氏が著作したエッセイ本。裕而と金子の文通や写真などが掲載され、二人の仲の良さを感じることが出来る一冊です。, 古関裕而が歩んだ道のりを、昭和史と重ねながら紹介する新書。当時のレコード事情や、第二次世界大戦、そして戦後復興への道のりなど、大まかな昭和史の流れなどを知ることが出来る一冊となっています。, 古関の故郷、福島県の新聞社・福島民報社が古関楽曲110曲の中からネットやはがきなどでアンケートを取り、上位に選ばれた30曲が収録されたアルバム。1位は「高原列車はいく」で、この曲はJR福島駅の在来線ホームの発車メロディに採用されております, 古関裕而生誕100周年を記念して発売されたアルバムBOX。テーマ別にCD7枚組が収録されており、主要な楽曲を網羅することが出来るBOXセットとなっております。, 古関裕而生誕110年を記念して発売されたコンセプトアルバム。古関が作曲したスポーツ曲を中心に、ヘルシンキ五輪への参加が認められた昭和24年に発売された「スポーツ日本の歌 オリンピック目指して」が初収録されたアルバムとなっております。, かつて放送された古関裕而を特集した番組。古関のインタビューや、楽曲演奏などが収録されております。, 作曲家・古関裕而、作詞家・西條八十の作った歌の当時の映像や歌詞の意味を特集した番組。2時間番組で見応えたっぷりです。, 古関が音楽を務めた特撮怪獣映画。全編フルカラーで、モスラが東京タワーからサナギから成虫へ誕生するシーンは今もなお、特撮ファンの間で語られる名シーンとして有名です。, 古関が音楽を務めた戦争映画。沖縄戦で看護婦として前線に立ったひめゆり学徒隊を描いた作品。現在も、沖縄にはひめゆり学徒隊を供養するための、ひめゆりの塔が建立されております。, 人間が生活するために、エンターテイメントは斬っても切り離せない関係にあると筆者は思っております。特に、音楽の存在は重要で、一番世相に寄り添った娯楽だと思います。今回取り上げた、古関裕而は様々な楽曲を通して、様々な人たちの記憶に残る楽曲をいくつも提供してきた偉大な作曲家です。, 朝の連続テレビ小説「エール」では、菊田との出会いや戦時中について、どのように描かれるのかはまだわかりませんが、もっと多くの人に古関の功績を知って欲しいと感じました。, レキシル編集部の京藤 一葉(きょうとういちよう)です。

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