T. Yamanouchi et al. :The Thuchydides 3番目に発見されたのは麻疹ウイルスである。1912年、米国のJohn AndersonとJoseph Goldbergerは、麻疹患者のサンプルをアカゲザルに接種する実験を行い、発疹が出て14時間後という早い時期の血液を2頭のサルに接種した結果、体温の上昇、発疹の出現が確認できたのである(12)。 8) Smith,W.,Andreus,C.H.,Laidlaw,P.P.:A virus obtained : Lancet, 1, 971 (1919), 3. J. Taubenberger et al., Antivir. 19世紀後半、コッホにより炭疽菌をはじめとする種々の細菌がそれまで原因不明とされてきた病気の原因であることが明らかにされ、細菌の狩人の時代となっていた。コッホ門下のRichard Pfeifferは1892年、インフルエンザの患者の鼻から小型の棒状の細菌(桿菌)を発見し、これをインフルエンザの原因と考えてインフルエンザ菌(一般にはプファイフェル菌)と名付けた。動物実験などインフルエンザの病原体という証拠はなかったが、インフルエンザの患者の咽頭に多く見いだされた事実から、当時の学会はプファイフェル菌原因説を受け入れていた。, 注:現在はヘモフィルス・インフルエンザ(Haemophilus influenza)の学名が付けられている。この菌はその外側の膜の性状からa~fの6型に分類され、そのうち、b型菌が肺炎の原因となるため、現在、これに対するワクチンが小児や高齢者に用いられている。これは学名の頭文字とb型を組み合わせて、ヒブ(Hib)ワクチンと呼ばれている。, インフルエンザ菌の発見から20数年後、スペイン風邪の流行で、この菌は脚光を浴びた。日本でも大正7年(1918)、北里研究所(北研)は、プファイフェル菌が原因という立場で、この菌のワクチンを製造した。伝研はプファイフェル菌、肺炎双球菌(注)のいずれもが原因とは決めかねるという見解だったが、両方の菌に対する混合ワクチンを製造した。最終的に北研のワクチン248万人分、伝研のワクチン249万人分が接種されたが、流行が終息したのち内務省衛生局の最終的見解は、ワクチンに効果はなかったというものだった(2)。, 注:1881年に米国のGeorge Sternbergとフランスのパスツールにより肺炎の原因菌として同時に分離された。現在は肺炎連鎖球菌と呼ばれている。日本では2010年から乳幼児用のワクチンが用いられている。, ②ウイルス原因説 Document No. A virus obtained Med., 33, 913 (1914), 16. Andrewes: J. Pathol. : Ortomyxoviruses in Fields Virology. A. Hess: Arch. 181-198, 1944. (1)動物體内ニ於ケル「アトキシル」ノ「トリパノゾーマ」ニ働ク作用ニ就テ(獨文) : Amer. (5)血清内ニ於ケル抗蛋白消化醗酵素ニ就テ(獨文), 2. Lippinncott-Raven Publishers,Philadelphia,1996. 「大日本博士録」第2巻 C.H. (五)同原因菌は気道粘膜を通過感染すること Goldberger. 一方、英国では1920年代、国立医学研究所でPatrick Laidlawが獣医師George Dunkinとフェレットを用いてジステンパーの研究を行っていた。実験動物ではないフェレットを選んだ理由は、Laidlawがフェレットの飼育場でしばしばフェレットが犬からジステンパーにかかって死亡するという話を偶然耳にしたことからである (7)。 Metchnikoff)は、白血球(現在のマクロファージ)の食菌現象を発見し、抗体による液性免疫のほかに細胞性免疫の重要性を明らかにした。その成果から1908年ノーベル賞を受賞した。パスツール研究所長をつとめ、1916年に死亡した。, そこで、東京帝国大学一覧の卒業生名簿で確認したところ、明治39年(1906)7月卒業の欄に確かに「山内保」の名前があった。さらにこの名前で検索を進めた結果、以下の記事が見つかった(読売新聞、大正8年(1919)4月1日号)。 REUTERS / Agencja Gazeta / Lukasz Cynalewski「インフルエンザ用ワクチンの投与と変わりない」 コロナ用ワクチンの実験に初参加の女性が投与後の感覚を語る研究が行なわれるきっかけは、2009年に欧州のいくつかの国々で感染が流行した際に、季節性の風邪の流行とともに、秋になってH1N1亜型ウイルスの拡大が鈍化したことが報告されたことにある。, 医療データの分析と細胞の培養実験の実施で、米国ニューヘブン市のイェール大学医学部の研究者らは、ライノウイルスがA型ウイルスの拡大を防止しているという結論に達した。, ある病原体が他の病原体の増殖を抑制する際にウイルスの干渉が現われることは以前から知られていたが、しかし、この感染因子の組み合わせについては、はじめて記録がされた。, https://cdn1.img.jp.sputniknews.com/img/377/67/3776777_0:198:5616:3357_1200x675_80_0_0_c0605b216d5514fa5304b0311067f98e.jpg.webp, https://cdn1.img.jp.sputniknews.com/i/logo.png, https://jp.sputniknews.com/science/202009137767567/, 下記の「登録」ボタンをクリックすると、貴殿の個人情報の処理と、個人情報保護方針への貴殿の同意が確認されたことになります。, プロフィールが削除されました。プロフィールの再現は削除後30日以内であれば、登録の際のこちらからの送信メールにあるアドレスから可能です。, ソーシャルネットワーク上のユーザーアカウントを通じてスプートニクのサイトでユーザー登録および認証を受けたという事実は、本規約に同意したことを意味する。, © 1910年にはアトキシルの作用について2編の論文を発表。, 学位論文 ||c.scripts[c.scripts.length-2];(b[a].q=b[a].q||[]).push(arguments)}; そこで、Yamanouchiのウイルス説が書かれたLancetの論文を検討するとともに、インフルエンザの原因に関する当時の考え方を整理し、その論文が果たして最初の発見に相当するものかどうか検討した。一方、Yamanouchiがどのような人物なのか調査を行った。, ①細菌原因説 Yamanouchiによるインフルエンザウイルスの発見は人のウイルスでは4番目になるが、ポリオウイルスと麻疹ウイルスはサルへの感染実験で発見されたもので、インフルエンザウイルスは人体実験で発見されたウイルスとしては黄熱に次ぐものとなる。 5.インフルエンザワクチンの歴史 インフルエンザウイルスが発見される(1933年)前の1919年3月9日(スペインかぜの流行時)の大阪毎日新聞は「感冒ワクチン」製造を当時の北里研究所が着手したと報道している(図4)。 Child. あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から, )が登場して5年目の冬を迎えることになり、インフルエンザの診断がより的確に求められるようになりました。そこで、インフルエンザという疾患をより深く理解するために、その歴史を辿ってみました。, インフルエンザは、小児から高齢者まで全く元気だった人が突然に高熱をだし、寝込んでしまい、食事摂取が極めて少なくなり、時に肺炎や脳症で死亡することがあるが、放置しておいても4, 。平安・鎌倉時代には、咳逆(しはぶき)・咳逆疫(しはぶきやみ)という疾患名があり、今日でいうインフルエンザを示すものだが、インフルエンザ以外の風邪症候群、肺炎、肺結核も含まれると考えられる, 江戸時代に入ると、記録は詳細になり、インフルエンザを示す疾患を巷では「風」「はやりかぜ」と呼んだ。流行場所から、谷風, the Third edition editerd by Fields B.N.et al.1397. J.Med. 「日本博士録」第1巻 b[a]=b[a]||function(){arguments.currentScript=c.currentScript from influenza patient.Lancet,66-68,1933. 6) 廣瀬 桂次郎訳:流行性感冒. インフルエンザにかかってしまうと、多くの場合、一気に38度から40度の高熱が出現し、日常生活が不可能なほどの強烈な全身の筋肉痛や倦怠感に襲われることになります。 記事の見出し、記事内容、およびリンク先の記事内容は株式会社QLifeの法人としての意見・見解を示すものではありません。, QLife 【最新版】【2016-2017シーズン】インフルエンザ予防接種 <都道府県別>平均価格 全国平均は3,346円. しかし、プファイフェル菌を咽頭に接種された14名はひとりも発病しなかった。 : Ortomyxoviruses in Fields Virology. 9) Beveridge,W.I.B. R.E. これは、 インフルエンザ 患者からこの細菌が多く発見されたため、原因菌だと誤って考えられたためです。 さて、1898年に世界で最初に発見されたウイルスは「タバコモザイクウイルス」です。… Y. Hiro & S. Tasaka: Monatsschr. 1922年からは東京・麹町区平河町6丁目5番地で糖尿病、動脈硬化などの診療。医院の広告をしばしば新聞に掲載している。, 124.新刊書『牛疫:兵器化され、根絶されたウイルス』アマンダ・ケイ・マクヴェティ著、山内一也訳、城山英明協力(みすず書房). インフルエンザ(イタリア語: influenza、ラテン語: influentia)とはインフルエンザウイルス急性感染症。上気道炎症状・呼吸器疾患などを呈する。流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)略して流感(りゅうかん)とも呼ばれる。日本語ではインフル、英語ではfluと略されることも多い。 (2)異種ノ血清ヲ注射シタル動物ニ於ケル末梢神経電気興奮性低減ニ就テ(佛文) (四)同病潜伏期は二三日なること 山内が実験を行った場所が果たしてどこだったのかが、最後に残された問題だった。「東京大学百年史」の過去の教員(教授、助教授、技師)のリストおよび「東京帝国大学一覧」の各部局概要に山内保の名前は見あたらなかった。大正8年頃の伝研の職員名簿と履歴書は保管されていなかった。こうして、山内保が伝研に所属していたことを確認できる資料は見つからなかった。もっとも、スペイン風邪については細菌説にもとづく研究に専念していた伝研で山内が実験を行ったことは考えられない。同様に北研が実験場所になった可能性も皆無であった。また、前述の読売新聞(大正9年4月1日号)で、日本では彼の研究結果は受け入れられないことが述べられていることからも、伝研や北研が実験場所になったことはありえない。 こんな方におすすめ 子供の「感性」を磨きたい。 子供に「自信」つけてあげたい。 【いのちのはじまり】監督:エステラ・ヘネルの映画の中で、ジャンマルクアイサレット医学博士など様々な研究者が育児における大 ... 時々、子育ての悩みが頭の中を駆け巡り、夜眠れない時がある。 なぜなら、問題となった様々な事柄が起きたその瞬間に、適切な叱り方や伝え方ができないからである。 だから、あの時、どうしたらよかったんだろう、 ... 【いのちのはじまり】監督:エステラ・ヘネルの映画の中で、ジャンマルクアイサレット医学博士など様々な研究者が育児における大切なヒントを教えてくれました。その中で私の心に残ったものをいくつか紹介いたします ... 子供の頃、父が毎年キャンプに連れて行ってくれた影響でアウトドアの経験はかけがえのないものとして私の中に残っています。娘にもアウトドア体験から多くを吸収してスクスク育って欲しい!子どものためのoutdoorを日々模索しております。. Intern. 雑誌「科学」2011年8月号に掲載した記事です。科学編集者の了解を得て転載します。野口英世と同時代にパスツール研究所で活躍していた日本人科学者としても興味があります。2011年3月初めには新聞記事にもなるはずでしたが、大震災のために取りやめになりました。, 私の古くからの友人にFrederick Murphyというウイルス学者がいる。国際ウイルス学会長などを歴任したウイルス学領域の第一人者である(注)。彼は現在、ウイルス発見の歴史について、発見者の写真などを中心に800枚以上のスライドにまとめて同大学のホームページに掲載してきており、http://www.utmb.edu/ihii/virusimages/index.shtmlそれを元にウイルス発見の歴史に関する本を執筆している。, 注:Murphyは1976年のエボラ出血熱発生の際に米国疾病管理予防センター(CDC)の特殊ウイルス病原部長として、エボラウイルスの分離にかかわり、彼が撮影したエボラウイルスの写真は危険なウイルスのシンボル的存在になっている(図1)。 (この図は「科学」には掲載していません。写真は彼が予防衛生協会シンポジウム(2009年2月7日)の講師として来日した際のもの。彼が締めているネクタイはエボラウイルスをパターンとしたものです。霊長類フォーラム人獣共通感染症第5回参照), 彼から2010年暮れにメールが送られてきた。その内容は、インフルエンザウイルスは1933年の英国のChristopher Andrewesのグループが発見したものとされてきたが、1918年のスペイン風邪の際にウイルスを発見したという報告がいくつかある。それらを詳しく調べた結果、最初の発見とみなせるもののうち、もっともすぐれたものは、1919年に帝国大学伝染病研究所の所属と思われるT. J.R. Kean: Scientific work and discoveries of the late Maj. Walter Reed. 講演会などで医療の最先端の話を聞く際に、内容が最先端のことのみに終始すると理解し難いものがありますが、冒頭に最先端に至るまでの歴史に少しでも触れてあると、実に理解し易くなるものです。, インフルエンザに対する本格的な抗ウイルス薬(タミフルⓇとリレンザⓇ)が登場して5年目の冬を迎えることになり、インフルエンザの診断がより的確に求められるようになりました。そこで、インフルエンザという疾患をより深く理解するために、その歴史を辿ってみました。, インフルエンザは、小児から高齢者まで全く元気だった人が突然に高熱をだし、寝込んでしまい、食事摂取が極めて少なくなり、時に肺炎や脳症で死亡することがあるが、放置しておいても4-5日間で回復する。また周囲に同様の症状を示す人が多数みられるという特徴的な様相を呈するため過去にこの疾患を示唆する記録は見出しやすい。, B.C.412年に「ある日突然に多数の住民が高熱を出し、震えがきて咳がさかんになった。たちまち村中にこの不思議な病が拡がり、住民たちは脅えたが、あっという間に去っていった。」という、まさにインフルエンザを示唆するヒポクラテスの記録がみられる1)。これよりさらに15年前に、医師ではないが、ギリシアの軍人ツキジデスが、「B.C.430~427年、アテネにおける大疫病によりアテネ人に多数の死者が出て、アテネとスパルタとの間のペロポネソス戦争が終結した。」という記録を残している。この疾患は以前にはペストとか天然痘とか言われていたが、1985年にLangmuirが「大疫病はインフルエンザであったと推測する。」と発表している2)。, わが国ではどうかというと、ヒポクラテスに約1270年遅れて、「三代実録」という一般の書物に「1月自去冬末、京城及畿内外、多患、咳逆、死者甚衆・・・」とある(862年)。医学書では、わが国に現存する最古といわれる「医心方」(丹波康頼著)に咳 治療の項があり、“咳逆”を「之波不岐(シハブキ)」と訓読している(984年)。1008年頃発刊された源氏物語の夕顔の項に「この暁よりしはぶきやみに候らん、かしらいと痛くて苦しく侍れば・・・・。」とあり、これを作家で尼の瀬戸内寂聴氏は現代語版で「朝から風邪をひいて、頭が痛くて気分が悪い・・・。」と表現している。また大鏡(1010年)には、「一条法王がしはやぶきやみのため37歳で死去された」とあり、増鏡(1329年)には「今年はいかなるにか、しはぶきやみはやりて人多く失せたまうなかに・・・・。」と書かれている3」。平安・鎌倉時代には、咳逆(しはぶき)・咳逆疫(しはぶきやみ)という疾患名があり、今日でいうインフルエンザを示すものだが、インフルエンザ以外の風邪症候群、肺炎、肺結核も含まれると考えられる4)。, 江戸時代に入ると、記録は詳細になり、インフルエンザを示す疾患を巷では「風」「はやりかぜ」と呼んだ。流行場所から、谷風(1784年、横綱 谷風梶之助が罹患)、薩摩風(1802年)、琉球風(1832年)、アメリカ風(1856年、開国により下田に上陸した米人が流行させたという)などと名付けられたという記録が残されている。医学書では、統一された用語はなく、“傷風”、“冒寒傷冷毒”、“天行感冒”、“時気感冒”などが著者により異なって使われた3)4)。, さて、「インフルエンザ」の名称は一般に認められているのが、1358年イタリア人によって用いられたのが最初で、「the Biol. 検温が正しくできないと一大事に! 今年、小学校2年生の娘がインフルエンザになりました。 最初の症状は、「咳」でした。 インフルエンザの時期ではありましたが、インフルエンザの最大の症状である「 … 人間とインフルエンザの付き合いには非常に長い歴史があり、世界最古の文明といわれる古代エジプトには、すでにインフルエンザと思われる症状を呈する病気が存在していたと言われています。 ただもちろん、この時代にインフルエンザウイルスを同定するような方法はなく、あくまで残された症状の記載からの推測、ということにはなります。 その他、古代ギリシアの有名な医師、ヒポクラテスの残した文献にインフルエンザ … Bacteriol., 51, 145 (1940), 9. (三)同原因菌は患者の血液中にも存在すること C. Nicolle & C. Lebailly: Comptes Rendus de l’Academie des Sciences, 167, 607 (1918), 4. msmaflink({"n":"オムロン 電子体温計 けんおんくん わき専用 MC-681","b":"オムロン(OMRON)","t":"MC-681","d":"https:\/\/images-fe.ssl-images-amazon.com","c_p":"\/images\/I","p":["\/31yvKGUlhsL.jpg","\/31-dOuncZHL.jpg","\/41fncyQ7BdL.jpg","\/5128W3PbAvL.jpg","\/21XE3vL9uqL.jpg"],"u":{"u":"https:\/\/www.amazon.co.jp\/%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%B3-%E9%9B%BB%E5%AD%90%E4%BD%93%E6%B8%A9%E8%A8%88-%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%8F%E3%82%93-%E3%82%8F%E3%81%8D%E5%B0%82%E7%94%A8-MC-681\/dp\/B00F5VR11A","t":"amazon","r_v":""},"aid":{"amazon":"1527407","rakuten":"1527371","yahoo":"1527408"},"eid":"JCLj0"}); 他にも「子供最優先のアウトドア」について有益な情報をどんどん記事にしていますので、良かったら読んでください!, また、少しでも多くの親子にアウトドアの良さを感じていただきたいので、下のボタンからSNSで拡散していただけると親子一同 感謝です^ ^. インフルエンザ4:43-50,2003. 主論文:アトキシルのトリパノゾーマに働く作用, 帰国後の研究 influence of either the star or the cold weather, の用語を使用している。「医療正始」は、ドイツ医学書のオランダ語訳本をさらに日本語に訳したもので、, 。「感冒」という疾患名は江戸時代に使用されたと先に記したが、いつが起源であるかはいずれにも記載はないため調べてみた。図書館で, 、江戸時代に入る前の戦国時代から安土・桃山時代の頃に既に「感冒」という疾患名が存在したことが示唆された。遡って調べると、今のところ鎌倉時代の, 。当時は細菌学の盛んな時代であり、とりあえずはそれが認められた、というよりはあえての反論はなかった。それ以前は、何らかの外的因子による影響に起因すると考えられていた。地上に蔓延する神秘的な悪質因子である瘴気, 先にも述べたがインフルエンザは特徴的な発症と流行の様相を呈し、冬の流行時期は、症状聴取でほぼ, が、高熱で身動きのとれない状態の患者に対して直ちの診断には役にたたない。つい数年前まで患者を前にしては症状聴取による診断がなされていた。わが国でインフルエンザ抗原に対する迅速診断キットが発売されたのは, 愛氏内科全書には、「臥床に就き、液性および淡白なる易化の食物を摂取し、室内の空気は湿濡にしかつ温度を平等ならしむを良とす。・・・対症療法を要することあり例之劇しき気管支炎あるいは去痰薬もしくは麻酔薬を用い虚脱においては興奮薬などを用いるが如し」とある, 。110年程前までは、安静臥床と極く初歩的な対症療法がインフルエンザ治療のすべてであったようだ。(私の調査が不十分であり、)いつの頃か明らかにできていないが点滴静注という脱水の治療は原因治療ではないものの、致死率を大きく下げたと推測する。またその後抗菌薬が開発され、合併症としての肺炎治療に大いに貢献したと考える。欧米でアマンタジン(シンメトレル, 1964年のことである。但し、わが国でアマンタジンがA型インフルエンザの治療薬として保険適用になったのは、30年以上経った1998年11月と遅い。そして2種類のノイラミターゼ阻害薬(オセルタミビルとザナミビル)[タミフル, パンデミックは大流行と訳されるが、インフルエンザパンデミックは単なるインフルエンザの大流行ではない。A型インフルエンザウイルスの新しい亜型による大流行を意味する。従って、インフルエンザウイルスが発見される, )の計3回のインフルエンザパンデミックが世界を襲ったことになる。1919年(大正8年)の東京朝日新聞の記事にパニック状態が伺える(図5)。1998年には香港でH, という新しい亜型のインフルエンザウイルスが出現したが、香港中の鳥を屠殺したため、またヒト, 。最後のインフルエンザパンデミックから既に36年が経過する。遠くない将来、新しいA型亜型によるインフルエンザパンデミックが発生する可能性は十分にあると考えられる。, Marphy,B.R. 1. これらの結果、出された結論は以下の通りだった。 大正2年(1913)2月13日「アトキシル」ノ「トリパノゾーマ」ニ働ク作用(東大), 3. (3)「アナプイラキシー」ノ研究報告(獨文、エ,ペーピック共著) 118. 5.インフルエンザワクチンの歴史 インフルエンザウイルスが発見される(1933年)前の1919年3月9日(スペインかぜの流行時)の大阪毎日新聞は「感冒ワクチン」製造を当時の北里研究所が着手したと報道している(図4)。 米国の研究者らが、通常、風邪と呼ばれるライノウイルスがA型インフルエンザウィルスをブロックできることを明らかにした。研究結果が『The Lancet Microbe』誌に公表された。 Kinderheilk., 76, 328 (1938), 「科学」では触れていませんが、山内保のパスツール研究所での研究と帰国後の動静についてのメモを添付します。野口英世と同時代に行われた彼の研究活動をうかがい知ることが推測できます。山内保の子孫が見つかれば、さらに詳しいことが分かるはずです。なにか手がかりが得られればと願っています。, 研究内容 Med., 54, 349 (1931), 7. 4, 20 (1912), 13. (1903), 10. イギリスのウィルソン・スミス、クリストファー・アンドリュース、パトリック・レドローらによって、ウイルスによるものだと結論付けられたのは1933年のことです。 4.1933年以前にインフルエンザウイルスを発見していた日本人がいた? 当ホームページに掲載されている情報の無断流用・転載等はご遠慮願います。Copyright © 2020 一般社団法人 予防衛生協会 All rights Reserved. A. Stokes et al. from influenza patient.Lancet,66-68,1933. influence of either the star or the cold weather」に由来する(influenceには「影響」という訳のみならず「天体が発する霊気が人に流れ込む」という意味がある)。その後、1782年イギリスでの流行の際に「インフルエンザ」の疾患名が世界に広く使われるようになり、定着した3)。わが国では、江戸神田の種痘所設立の発起人となった伊東 玄朴(1800-1871)がその著書医療正始の中で「印弗魯英撒」の用語を使用している。「医療正始」は、ドイツ医学書のオランダ語訳本をさらに日本語に訳したもので、1835年に発刊され、現在は大阪市にある武田科学振興財団の蔵書となっている5)(図1)。流行性感冒の名称は1890年(明治23年)の流行の際に使われ始め、1891年に発刊された愛氏内科全書(ドイツ人アイヒホルストの著書を廣瀬桂次郎が訳した)に記載されている(図2)。1890年-1891年以降わが国で広く使用されるようになった6)。「感冒」という疾患名は江戸時代に使用されたと先に記したが、いつが起源であるかはいずれにも記載はないため調べてみた。図書館で1600年代初頭に書かれた日本語-ポルトガル語辞書を全文邦語訳にし、「邦訳日葡辞書」として1980年に発刊された本を見つけた。その中に“canbow(カンバウ)”という“感冒”の発音に似た風邪を意味する記載があり7)、江戸時代に入る前の戦国時代から安土・桃山時代の頃に既に「感冒」という疾患名が存在したことが示唆された。遡って調べると、今のところ鎌倉時代の1304年に発刊された「頓医抄」が最初のようだ。さらに以前から「感冒」は中国語として使われており、この疾患名の起源は中国と考える。, 1889年、ドイツ人Richard PfeifferがH.influenza(インフルエンザ桿菌)を発見し、これこそがインフルエンザの病原体であると報告した8)。当時は細菌学の盛んな時代であり、とりあえずはそれが認められた、というよりはあえての反論はなかった。それ以前は、何らかの外的因子による影響に起因すると考えられていた。地上に蔓延する神秘的な悪質因子である瘴気(ミアズマ)によるとの考えに支配されていた。ウイルス学はもちろん細菌学も散在しなかった頃ではやむを得ない考えと思われる。むしろ、日本語の「感冒」に表されるように自らつくる病気ではなく、何らかの外的影響に感作されて冒される疾患と考えられていたことは正しいことであろう。先に述べた愛氏内科全書(原著は1889年以前に書かれたと思われる)には、「流行性感冒の原因は瘴気というものではなく、患者との交際により感染しあるいは媒介者および患者の使用した物品により蔓延する・・・・・、伝染毒の強劇とその毒質に対する感受性から蔓延する。」と記載されており6)、未だ発見されていない病原体を原因と考えていたようである。H.Influenzaについては、Pfeifferの報告後しばらくの間は大きな反論はなかったが、1919年の過去最大の流行を呈したスペインかぜの際には大きく賛否両論に分かれた。わが国では、スペインかぜが流行し始めた際にPfeifferのH.influenzaを支持する北里研究所とそれに反対する東京大学伝染病研究所との学問的対立が当時の東京朝日新聞(1918年11月24日と11月25日)に大きく報道されている(図3)。この時決着はつかず、1933年Smith(英国)によるインフルエンザウイルス発発見8)まで病原体の解明は待たなければならなかった。その後、1940年FransisによりB型インフルエンザ、1949年TaylarによりC型インフルエンザウイルスが発見された9)。, 先にも述べたがインフルエンザは特徴的な発症と流行の様相を呈し、冬の流行時期は、症状聴取でほぼ70-80%が的中するといわれる。愛氏内科全書(1891年)の診断の項では、「本病は流行時に際してはその症候の顕著なるがために鑑識すること難とせず。然れども散在性に発症せる症を設定するは決して易事にあらず・・・・。」とある6)。1933年インフルエンサウイルスが発見され、1941年にはHirstにより赤血球凝集抑制試験が考案された8)が、高熱で身動きのとれない状態の患者に対して直ちの診断には役にたたない。つい数年前まで患者を前にしては症状聴取による診断がなされていた。わが国でインフルエンザ抗原に対する迅速診断キットが発売されたのは1998年のことである。2003年1月現在では8種類の迅速診断キットがあり、そのうち6種類にA,Bの鑑別が可能とされている10)。, 愛氏内科全書には、「臥床に就き、液性および淡白なる易化の食物を摂取し、室内の空気は湿濡にしかつ温度を平等ならしむを良とす。・・・対症療法を要することあり例之劇しき気管支炎あるいは去痰薬もしくは麻酔薬を用い虚脱においては興奮薬などを用いるが如し」とある6)。110年程前までは、安静臥床と極く初歩的な対症療法がインフルエンザ治療のすべてであったようだ。(私の調査が不十分であり、)いつの頃か明らかにできていないが点滴静注という脱水の治療は原因治療ではないものの、致死率を大きく下げたと推測する。またその後抗菌薬が開発され、合併症としての肺炎治療に大いに貢献したと考える。欧米でアマンタジン(シンメトレルⓇ), 1964年のことである。但し、わが国でアマンタジンがA型インフルエンザの治療薬として保険適用になったのは、30年以上経った1998年11月と遅い。そして2種類のノイラミターゼ阻害薬(オセルタミビルとザナミビル)[タミフルⓇとリレンザⓇ]が許可されたのは2001年2月のことで記憶に新しい11)。, インフルエンザウイルスが発見される(1933年)前の1919年3月9日(スペインかぜの流行時)の大阪毎日新聞は「感冒ワクチン」製造を当時の北里研究所が着手したと報道している(図4)。これは現在のインフルエンザに対するワクチンではなく、, 1889年に発見されたH.influenza.に対するワクチンである。スペインかぜの猛烈な勢いのため、膨大な人数が羅患し、死者が続出するため、わらをもつかむ気概で製造を急いだものと推測する。本来のインフルエンザワクチンの接種がわが国で実施されたのは1950年で、A型の亜型はHoN1であった。ウイルス粒子をホルマリンで不活性化した全粒子ワクチンであり、その後1972年以降副反応を少なくする目的で、さらにエーテルで処理し、脂質部分を除いたワクチンが使用されている。1993年までで学童の集団接種が中止されたこともあり、全盛期には2963万人分製造されたワクチンが1994年には30万人分に減った。1998-2000年には、特養・老健などの老人ホームでインフルエンザの蔓延により死亡者が相次ぎ、社会問題となった。このことが影響してか、2001年の年末から65歳以上の高齢者に行政から補助が出されて予防接種が再び普及するようになり、1000-1200万人分が製造され接種者が増加した12)13)。, パンデミックは大流行と訳されるが、インフルエンザパンデミックは単なるインフルエンザの大流行ではない。A型インフルエンザウイルスの新しい亜型による大流行を意味する。従って、インフルエンザウイルスが発見される(1933)以前の大流行は真の意味での大流行になり得ない。ただ1919年のスペインかぜのウイルスの亜型は後の研究によりH1N1と判明し、イタリアかぜやソ連かぜと同じ亜型とされた8)。20世紀には、①スペインかぜ(1919年、H1N1)、②アジアかぜ(1957年、H2N2)、③香港かぜ(1969年、H3N2)の計3回のインフルエンザパンデミックが世界を襲ったことになる。1919年(大正8年)の東京朝日新聞の記事にパニック状態が伺える(図5)。1998年には香港でH5N1という新しい亜型のインフルエンザウイルスが出現したが、香港中の鳥を屠殺したため、またヒト-ヒト感染もおこらずパンデミックには至らなかった14)。最後のインフルエンザパンデミックから既に36年が経過する。遠くない将来、新しいA型亜型によるインフルエンザパンデミックが発生する可能性は十分にあると考えられる。, 1) Marphy,B.R. 2) Langmuir,A.D.et al. 私の古くからの友人にFrederick Murphyというウイルス学者がいる。国際ウイルス学会長などを歴任したウイルス学領域の第一人者である(注)。彼は現在、ウイルス発見の歴史について、発見者の写真などを中心に800枚以上のスライドにまとめて同大学のホームページに掲載してきており、http://www.utmb.edu/ihii/virusimages/index.shtmlそれを元にウイルス発見の歴史に関する本を執筆している。 注:Murphyは1976年のエボラ出血熱発生の際に米国疾病管理予防センター(CDC)の特殊 … (window,document,"script","//dn.msmstatic.com/site/cardlink/bundle.js","msmaflink"); (二)同原因菌は患者の喀痰内に存在すること Exp. (林 雄次郎 訳):インフルエンザー人類最後の大疾病ー. 1922年からは東京・麹町区平河町6丁目5番地で糖尿病、動脈硬化などの診療。医院の広告をしばしば新聞に掲載している。. J. Anderson & J. ④ プファイフェル菌はインフルエンザの原因ではない。 Therapie, 2, 377 (1909), 12. (一)流行性感冒の原因は濾過性細菌なること : Amer. and Webster,R.G. REUTERS / Agencja Gazeta / Lukasz Cynalewski, 「インフルエンザ用ワクチンの投与と変わりない」 コロナ用ワクチンの実験に初参加の女性が投与後の感覚を語る, 憎悪を煽り立て、人種・民族・性・信教・社会的差別を助長し、少数者の権利を迫害するもの, 他のユーザー、個人ないし法人に対する中傷や脅迫を含み、その名誉や尊厳を傷つけ、または社会的評判を貶めるもの, 商業的目的を持った発言、適切でない広告、違法な政治的宣伝または、そうした情報を含む別のサイトへのリンクを含むもの, スパムを含み、スパムの拡散やメッセージの大量配信サービスおよびインターネットビジネスのための素材を宣伝するもの, そのコメントが、同一または類似の内容を持つ大量のコメントを投下する行動の一環をなす場合(フラッシュモブ), 内容の稀薄な、または意味の把握が困難ないし不可能なメッセージを大量に投稿した場合(フラッド), インターネット上のエチケットを乱し、攻撃的、侮辱的、冒涜的振舞を見せた場合(トローリング), テキストの全体または大部分が大文字で又は空白無しで書かれるなど、言語に対する尊敬を欠く場合, 上記規則への違反と認められ、アクセス禁止措置が取られる理由となった行動に対する説明. 人体実験では、得られた知見は限られていた。口蹄疫など動物を用いた実験では動物での継代もできたが、黄熱やインフルエンザでは不可能であった。黄熱やインフルエンザについてのウイルス学的研究は動物実験が可能になってから進展した。前述のように、黄熱ウイルスでは1928年のStokesのサルへの感染実験の報告から、インフルエンザウイルスでは、Andrewesらのフェレットへの感染実験の報告から現在につながる研究が始まったのである。Yamanouchiの成績が予想通りすぎて信じられないという指摘もあるが(13)、これが当時出されていた見解か現在の視点からのものか分からない。ウイルス発見の初期の歴史では、Reedが黄熱ウイルスの最初の発見者という見解が受け入れられており、山内の報告はReedのものよりはるかに詳細な内容である。Reedの場合と同様に、Yamanouchiの成果はインフルエンザウイルスの最初の発見のひとつとみなすのが妥当であろう。 こんな方におすすめ キャンプの楽しみを、子どもと分かち合いたい親御様 キャンプ初心者で、親子で何をしたら良いか考えている親御様 キャンプの醍醐味の一つに「焚き火」があります。子どもがワクワクするような ... 知ってましたか? 「小学校入学前」に、「海で泳いだり魚を釣ったりした体験をする」と、「人前でも緊張せずに自己紹介ができる、喧嘩をした友達を仲直りさせることができる、人間関係能力に優れた」子に育つ。 そ ... こどもがだんだん大きくなるにつれて「自然の中で遊ばせてあげたいなぁ〜」と感じることはありませんか? 「でも、なんか危険も多そうだし、経験も無いし、、、」 と、思う方も多いと思います。 私たち親がこども ... 意外に知られていない!「子どもの学習」&意味がわかれば楽になる!「幼児行動のワケ」. Compt. G. Kolata: ‘Flu’. 愛氏内科全書 第二十, 朝香屋書店. ② 病原体は粘膜への接種または注射で感染する。 今年もインフルエンザの流行が怖い季節になりました。毎年、この時期になるとインフルエンザの流行型やワクチンの摂取状況など、さまざまな情報がメディアを賑わせています。今回は、都内で行われたインフルエンザに関する勉強会で講演した、国立感染症研究所 ウイルス第一部主任研究官・中山幹男先生のお話しから、まだ、それほど知られていないインフルエンザの豆知識をご紹介します。, インフルエンザという言葉は、14世紀ごろのイタリアで名付けられたといわれています。当時、感染症の原因が病原体にあることはまだ知られていませんでした。冬季になると毎年のようにインフルエンザが流行することから、「占星術師は天体の運行など惑星の『影響』によって発生すると考え、『影響』を意味するイタリア語の『influenza』と名付けられました」(中山先生), 人類が初めて体験したインフルエンザの大流行は、1918~1919年に発生した「スペインかぜ」(1918 flu pandemic, Spanish flu)と言われています。「5000万~6000万人の方が亡くなり、第一次世界大戦はインフルエンザによって終わったと言われています」と中山先生。スペインかぜと呼ばれていますが、流行の発生源はアメリカ・デトロイトやサウスカロライナ州あたりと考えられています。, インフルエンザはウイルスが原因の感染症です。しかし、中山先生が「スペインかぜが流行した当時、インフルエンザがウイルスによるものだとは考えられていませんでした」と語る通り、過去には「インフルエンザ菌」という細菌が原因と考えられたこともありました。イギリスのウィルソン・スミス、クリストファー・アンドリュース、パトリック・レドローらによって、ウイルスによるものだと結論付けられたのは1933年のことです。, 1933年にウイルスよる感染症と断定されたインフルエンザですが、実はそれ以前の1919年にインフルエンザがウイルスによるもの、と示した研究者たちがいました。そのなかには日本人の山内保博士がおり、その名は国際的な医学雑誌「Lancet」にも記されています。中山先生は「山内先生は、患者のうがい液を素焼きの壷に通し、人に感染させるという実験を行いました。その結果、感染者が出たことから濾過性病原体、つまりウイルスであることがわかりました」と、その研究手法を紹介。素焼きの壷は、非常に細かいものしか通さないことからウイルスであるとわかったとそうです。, ニュースなどでよく目にするインフルエンザウイルスの形はたいてい「円形」ですが、「これは鶏卵で培養したもの」と中山先生。「実際には、ヒトから分離したてのウイルスは『ひも状』の長い形をしている」とのことです。, ひも状のインフルエンザウイルスの中には、8本のRNAが入っています。しかし、「すべてのウイルスにこの8本のセグメントが入っているかというと、そうではありません」と中山先生。完全なウイルスは10個に1個ほどしかなく、「理論上は10個のウイルスにかからないと感染しない」ということになるそうです。, 一般的に、インフルエンザはくしゃみや咳による飛沫感染が主な感染経路といわれます。しかし、中山先生は特に注意が必要なのは接触感染だと言います。「くしゃみや咳で飛んだ大きい粒子は、1メートル以内でほとんど落ちます。その落ちた飛沫がいろいろなところについてます。それを触った手が口にくる。ですから手洗いが非常に重要なのです」(中山先生), 冬になると流行するインフルエンザ。気温との関係がありそうですが、重要なのは湿度だそうです。「温度が18度、湿度が12%だとウイルスほとんど死にません。湿度が40%を超えるとウイルスはどんどん死にます」と中山先生。また、「温度を26度に上げても31度に上げても、低い湿度だとウイルスは生きてます」と語り、気温ではなく湿度が重要であることを示しました。, インフルエンザ予防や感染拡大の抑制に一役買うマスク。現在ではさまざまなタイプの商品が売られていますが、いわゆる「サージカルマスク」で十分だといいます。問題はそのマスクの捨て方だとそう。「マスクに付いたウイルスで二次感染がよく起きます。必ず耳元のヒモから外して、蓋のある入れ物に捨ててください」(中山先生), インフルエンザを含む感染症の予防には「手洗い・うがい」とよく言われます。しかし、うがいに関しては、ウイルスによる感染症への予防効果を示す確固たる研究成果はありません。「ウイルスが喉に付いた場合、すぐに細胞へ侵入し、うがいをしても洗い流すことはできません。喉に入らないように手洗いをしたり、マスクをしたりすることが大切です」(中山先生). and Webster,R.G. Farr, Straus and Giroux (1999), 15. Shope: J. Exp. (六)免疫性の存すること インフルエンザにはどのような歴史があるのでしょうか?インフルエンザワクチンや抗インフルエンザ薬、検査、予防接種などそれぞれの歴史があります。長いインフルエンザの歴史を見ていくと、驚くべき発見がたくさんありました! ããªãã£ã¸ã®å¯¾å¿æ¹é, ææ²»ãã¼ã«ãã£ã³ã°ã¹æ ªå¼ä¼ç¤¾. インフルエンザが流行する時期になると、ニュースなどで「今シーズンは a型が流行」、「b型の患者さんが増加中」といった話を耳にすることがあるかと思います。そもそも、この「a型」や「b型」とはなんでしょうか。型によって、症状や注意すべきことに違いはあるのでしょうか。 1933年1月に英国でインフルエンザの流行が起きた。すでにShopeの発表からインフルエンザがウイルスにより起こる可能性が示されていたため、ウイルスを分離する試みが国立医学研究所で、Laidlawに加えて、Christopher AndrewesとWilson Smithにより始められた。彼らは患者のうがい液を細菌濾過器を通過させて、ウサギ、モルモット、ラット、マウスなどへ接種してみたが失敗に終わった。そこでジステンパー研究用に飼育していたフェレットに接種してみたところ、フェレットはインフルエンザにかかった。フェレットへの感染実験を繰り返した結果、病原体は細菌濾過器を通過するウイルスであって、フェレットからフェレットへ継代できることが明らかにされた(8)。なおこの実験の最中、くしゃみをしたフェレットからSmithがインフルエンザに感染した。感染を起こしたウイルスは彼の頭文字からWS株と命名され、現在もインフルエンザウイルスの標準株として用いられている。この報告がこれまで、インフルエンザウイルスの最初の発見とされてきた。, Yamanouchiらの報告の意義を理解するために、ウイルス発見初期の歴史を振り返ってみる。1897年、Friedrich LoefflerとPaul Froshは、口蹄疫の病原体が細菌濾過器を通過する微少なものということを報告し、同じ年にオランダのMartinus Beijerinckはタバコの葉の病気であるタバコモザイク病が同様に細菌濾過器を通過する病原体によることを発表した。これが最初のウイルス発見となった。 日本疾病史(第2版), K. Landsteiner & E. Popper: Zeitschrift Immun. T. Yamanouchiを伝研所属と推測していたので、まず、当時の伝研の教授のリストを調べてみた。しかし、そのような名前は見つからなかった。そこで、医科研の図書室に依頼してYamanouchiら3名の日本名や経歴、写真などの調査を頼んだ。詳細な検索の結果、以下に述べるような事実が明らかになった。まず、医学博士山内保による「我医学界所見」という6回にわたる連載記事が見つかり、その第1回(読売新聞大正7年(1918 )11月27日号)に以下の前書きがあった。 「山内博士の新発見、仏国学士院に報告す」(注)「流行性感冒については、北研のプァイフェル氏菌説、帝大及び伝研のその打破説を始め各方面に屢々研究論議されたが右に関し昨秋仏国より帰朝した山内保博士は、旧臘より去る三月末の間医学博士・岩島十三、ドクトル坂上弘蔵氏と協力して専心その研究に没頭し、ー中略—最近その研究を完成し直ちに仏国アカデミーに報告した。そして元来なれば我が国に於て発表さるべきであるが、其の研究の方法は学術上の自由さへ許されぬ国状にあっては、ある一点から非常なる非難を受くべきことを慮んばかって右の方法に依ったといふが、—中略—その結論は大体左の通りで、特にプァイフェル氏菌や連鎖菌等は混合感染で感冒の病原体ではないとのことである。 スペイン風邪の原因としてプファイフェル菌などの細菌に注目が集まっている中、それまでの細菌よりも小型の濾過性病原体とされたウイルスについての研究も世界各地で行われ 、その中にはウイルスが病原体であることを示した報告もいくつか出された(2, 3)。当時もっとも著名な細菌学者Hans Zinsserは、1922年に出版した有名な細菌学のテキストブック(注)で、スペイン風邪が流行していた時期にウイルスを発見した可能性のある数名の科学者の名前を列記している。それらのうち、Yamanouchiの報告だけを取り上げ、その内容を半ページにわたって紹介している。スペイン風邪のウイルスについての研究の第一人者であるTaubenbergerも最近の総説(4)で当時のウイルス説としてYamanouchiについてとくに詳しい説明を行っている。スペイン風邪について発表されたウイルス説を詳細に調べたMurphyは、Yamanouchiが当時としてはもっとも広範囲な検討を行っていたことに注目したのである。, 注:Zinsser(1868-1940)は、米国の細菌学者でこの細菌学のテキストブックの第1版を1910年に出版して以来、1928年まで改訂を繰り返した。彼の死後も別の著者により続けられていて、現在は2010年改訂版が出版されている。, 注:Taubenbergerは、スペイン風邪で死亡した人のサンプルから原因ウイルスの遺伝子の配列の一部を1997年に発表し、後にすべての配列を決定した。そして、これにもとづいてスペイン風邪の原因となったインフルエンザウイルスの再構築に2002年に成功している。, この論文は、Prof. 3) 加地正郎:インフルエンザ流行の歴史. 11) 池松 秀之:内科での抗インフルエンザ治療薬、インフルエンザ3:35-39,2002. Levaditiとの共著、Soc. インフルエンザの時期ではありましたが、インフルエンザの最大の症状である「発熱」がないので、「普通の風邪」として対応していました。, パジャマの首から体温計を入れて数値が上がるのを見ていました。(ちゃんと測れていないのでは?), 小学校に入るあたりから、なんでも自分でやりたがるようになってきて、検温もその一つでした。, 検温は、服の中で行う作業にて、外からしっかり確認することができないため、子供任せになってしまいます。言葉で「脇の下にしっかり挟んでね」と再三言っていたにも関わらず、結果的にはその言葉では正確に伝わってはいなかったということでした。, 私は以前、医療系の職場で親しい看護師さんから教えてもらった方法で検温を行なっていました。, 「体温計の先の銀色の部分の中でも、一番先端の部分が正確に体温を感知することができる。だから、脇の下に先端をしっかり押し当てると良い」, 今回のことがあって、この方法が本当に正しいのかを確認するために「体温計の取扱説明書」や「体温計メーカーのサイト」を片っ端から調べました。, 感温部とは、「測温部」「サーミスタ」など名称は様々ですが、とにかく先端の銀色の部分もしくは、その内部のセンサーの名称です。, しかし、このセンサーの構造を調べても、「先端」の感度が一番正確かどうか証明する根拠となる情報は見つかりませんでした。, では、体温計メーカーさんが推奨する検温の方法に「先端の感度が正確」という内容が、どこかに書かれているかもしれないと思い、, そこには、とてもわかりやすく検温の方法がイラスト付きで説明されていました。(以下参照), とてもわかりやすいのですが、どこにも「先端感度正確」とは書いてありませんでした、、、。, ここまで、色々調べても、あの看護師さんが説明してくれた「先端の感度が正確」という内容の文面はどこにも出てきませんでした。, 正確な検温を一番わかりやすく説明できる魔法の言葉ではないのかという結論に至りました。, ぜひこの説明を子供にしてみてください。きっと正確な検温ができるようになると思います。, この方法で、少しでも多くの子供が正確に検温できることで、具合が早く良くなることを願っています。. 細菌濾過器など細菌学実験のための最新の設備を備えていた研究施設は、伝研、北研以外には星製薬細菌部だった。Lancetの論文の二番目の著者としての坂上はここの主任ドクトルである。したがって、実験場所は星製薬細菌部と考えて間違いないであろう。 山内のその後の消息については、新聞に掲載された転居通知などから医院を開業していたことが分かった。恐らく実験を行った頃にはすでに開業しており、そのためにLancetには所属が書かれていなかったものと考えられる。, スペイン風邪が流行した時代はウイルス発見の歴史の初期であり、しかも人体実験に依存した研究で得られた成果は限られていた。Murphyからのメールで、山内保という人物がインフルエンザウイルスの最初の発見者のひとりとして大きな貢献を果たしたことを初めて知り、彼の人物像と研究の背景の一部を明らかにすることができた。当時の日本の医学界は北里柴三郎を初めとするドイツに留学した人たちで占められており、米国で成果をあげた野口英世だけが例外的存在であった。パスツール研究所で活躍していた山内保が、日本帰国後に行ったインフルエンザがウイルス感染によることを示した研究が当時もっとも評価されていたことに驚きと喜びを感じている。, 山内保について詳細な調査を行っていただいた東大医科研図書室の諸氏、パスツール研究所での山内の活動状況を調べていただいたGill Dilmitis(元Director of OIE Publication Department)及び星製薬細菌部についての資料を提供していただいた星薬科大学・福井哲也教授と星製薬・竹下一夫取締役部長に感謝申し上げる。, 1. 1977.: 10) 山崎 雅彦、三田村 敬子、川上 千春:インフルエンザ迅速診断キットの現況. 臨床と研究,2515-2521,1998. この記事を読んで簡単なアンケートに回答すると、"Amazonギフト券に交換できる"QLifeポイントを獲得できます! 「日本医学博士録」 審査大学ト授与年月:大正2年2月 東大 T. Yamanouchi, Dr. K. Sakakami, Dr. S. Iwashimaの3名が共著者になった短いものだが、なぜか、所属は書かれていない。その内容は以下の通りである。 インフルエンザウイルスを発育鶏卵に接種すると大量に増殖すること(6)、及びインフルエンザウイルスは赤血球を凝集するという発見である(7)。これらの発見は、その後のインフルエンザ研究の必須の … c.getElementById(a)||(d=c.createElement(f),d.src=g, (七)プァイフェル菌、肺炎菌、連鎖菌等は単に混合感染にして感冒の病原菌に非らざること」, 注:1919年6月30日付けのフランス学士院報告には、会員のパスツール研究所のEmile Rouxから紹介されたLancetの論文の要約が掲載されている。Rouxは、ジフテリア菌が作る毒素の精製に成功し、これがジフテリアの重い症状の原因であることを明らかにしたことで有名であり、この成果が北里柴三郎とEmile Behringによる抗毒素療法の開発につながった。なお、Rouxはパスツールの最大の研究協力者のひとりで、パスツール研究所の創立者のひとりでもあった。, さらに、以下の記事も見つかった(東京日日新聞大正9年(1920)3月25日号)。「細菌学界の権威者・医学博士山内保氏は一昨年来流行感冒について研究していたが、此程其研究の結果を英国のランセット雑誌に発表した。同氏は流行感冒の実験を兎とか其他動物に於てなす事は体質の異る上より効果が薄いとなし、看護婦や門弟友人ら百人余人を試験材料に使って二カ年間研究を続けた。其結論は流感菌の喀痰を鼻腔咽喉の粘膜に付着すれば二三日中に発熱し発熱して流感となりー後略」 J. Dis. 4) 富士川 遊:流行性感冒. 1908で発表。 (Levaditi:フランス人医師、フランクフルトの実験治療学研究所でエールリヒと働いたのち、パスツール研究所で1910年研究室主任。), 2.梅毒の診断法 臨床診断に有用と評価された。同じ頃、野口英世も梅毒の研究に従事。, 3.アトキシルの作用 d.id=a,e=c.getElementsByTagName("body")[0],e.appendChild(d))}) (4)黴毒ノ潜伏期ニ就テ(佛文、シー,レハヂチー共著) 米国の研究者らが、通常、風邪と呼ばれるライノウイルスがA型インフルエンザウィルスをブロックできることを明らかにした。研究結果が『The Lancet Microbe』誌に公表された。, ライノウイルスの感染は、もっとも一般的な季節性疾患であるウイルス性の急性呼吸器感染症の1つ。ほとんどの場合、この感染症は5日から2週間続く普通の鼻かぜとして現われ、通常は風邪とみなされる。, © インフルエンザウイルスの構造が大きく変化すると、多くのヒトはこの新型ウイルスに免疫を持たないために感染が拡大したと考えられています。 ヨーロッパで最も古い記載は紀元前412年のヒポクラテスとリヴィによるものとされています。1 1.梅毒の動物実験 Levaditiとともに、チンパンジーに梅毒を接種、病変、スピロヘータの増殖などを観察、発病までの潜伏期について発表。ウサギでの実験的角膜炎、さらにウサギとチンパンジーに継代。 ⑤ すでにインフルエンザにかかった人、患者の喀痰やその濾液を接種された人は、免疫になっている。, スペイン風邪が人の間で大流行を起こしていた1918年に米国中西部の豚の間でも大規模な呼吸器疾患が起こり、症状がインフルエンザに良く似ていることから、ブタインフルエンザと命名された。(注), 注:このウイルスはその後、古典的ブタインフルエンザウイルスと呼ばれ、現在までブタの間で存続している。これが人、鳥のインフルエンザウイルスと交雑を起こして1998年には、いわゆる新型インフルエンザとなって、世界に混乱をもたらした(5)。, このブタインフルエンザの流行が1928年から1929年にかけてアイオワ州で起きた。ロックフェラー研究所のRichard Shopeは、ブタインフルエンザを発病した豚の呼吸器粘液を細菌濾過器を通過させたサンプルを接種して豚にインフルエンザを起こすことに成功し、豚で見られた病変について詳細な論文を発表した(6)。これがインフルエンザウイルス研究の突破口となった。 43名のインフルエンザ患者の喀痰を集めて、看護婦や友人など24名の志願者で行った実験だった。このうち、6名はインフルエンザにかかって治った人、18名はまだかかっていない人である。このうち、12名にはベルケフェルト細菌濾過器(注)を通過させて細菌を除去したサンプル、残りの12名には濾過しないサンプルを、それぞれ咽頭内に接種した。その結果、インフルエンザにかかったことのない人18名が2-3日の潜伏期で発熱、咳などインフルエンザの症状を出したが、すでに感染したことのある人はまったく発病しなかった。, 注:ドイツのハノーバーのベルケフェルト鉱山の珪藻土を主成分にした素焼きの磁器製の細菌濾過器。, 一方、細菌濾過器で濾過した血液を6名に、同様に濾過した喀痰を4名に皮下接種した結果、すでに感染したことのある1名を除いてすべて発病した。 ここでLancetの論文の著者が、山内保、坂上弘蔵、岩島十三の三名だったことが明らかになった。Murphyから依頼されていた山内の写真は、友人のフランス人科学編集者の協力で、パスツール博物館から彼がメンバーとして加わっていたパスツール研究所のロシア調査団(注)の記念写真(図2)が送られてきた。, 注:この調査団メンバーは、Elie Metchnikoff(パスツール研究所長)、Etienne Burnet(梅毒の研究、後にチュニスのパスツール研究所長)、Alexandre Salimbeni(コレラの血清療法などの研究)と山内の4名であった。1911年、ロシアでの結核とペストの調査を主に行い、1908年に報告されたツベルクリンの皮内試験を疫学調査に初めて応用してロシアでの結核の状況を調べ、一方、キルギス草原で発生していたペストが草原のネズミの間でのペスト菌感染の持続によることを指摘している。, 一方、坂上弘蔵については、星製薬が製造したワクチンについての記事(東京朝日新聞大正7年(1918)11月16日号)の中で、「星製薬細菌部主任ドクトル坂上弘蔵氏の創成になり・・・」という文言が見つかった。ここで坂上弘蔵が星製薬に所属していたことが明らかになった。私は、当時、ワクチンは伝研と北研だけで製造していたと思っており、星製薬がワクチンの製造を行っていたことは初耳だった。星製薬は星一(はじめ)が明治39年(1906)に設立したもので、当時最大の製薬会社であったが、大正5年(1916)に民間で最初のワクチン製造・販売を始めていたのである(14)。坂上は英国の有名な細菌学者Almroth Wright(注)の元での留学から帰国したところだった。, 注:第一次大戦の際に腸チフスワクチンの大規模接種を行い、その功績でSirの称号を与えられた。スペイン風邪が流行した際には、肺炎球菌、インフルエンザ菌、仮性ジフテリア菌、葡萄状球菌、連鎖状球菌の5種を混合した感冒ワクチンを開発した。星製薬が製造していた感冒ワクチンはこれだった。なお、ペニシリンを発見したAlexander FlemingはWrightの弟子。, 岩島十三については、ついに手がかりとなる資料は見つからなかった。 インフルエンザ以外には純粋痘苗研究(皮膚に病変を作らない精製痘苗)が分かっているだけ。 志賀潔がエールリヒの研究室で数百種の色素剤のトリパノソーマへの効果を調べ、1つのヒ素化合物がマウスでトリパノソーマの増殖を抑えることを見つけ、トリパン・ロート(トリパン・レッド)と命名。しかし、睡眠病の患者には効果がなかった。一方、英国でヒ酸とアニリンを加熱した際にできる化合物が毒性が低いことからアトキシルと命名していた。, アトキシルの治療効果(ウサギの実験的梅毒で)について1908年にLevaditiと論文を発表。 5) 伊東 玄朴(西肥)重訳, 漢越而實幾(和蘭)訳、毘斯骨夫(独乙)著. Rend. Murphyは私あてのメールの中で、「Yamanouchiは当時、もっともすぐれた業績をあげており、世界の主なウイルス学者が彼の業績を理解していて高く評価していたことは明らかである。—中略—私がこれまで、1933年におけるChristopher Andrewesらをインフルエンザウイルスの発見者と書いてきたことは、大きな誤りだった。私が調べた限り、多くの書物は同じ誤りをおかしている。」と述べている。, Yamanouchiという人物は大正時代の医学研究者にはまったく見あたらない。MurphyはProf. これ以後、1919年までのウイルス発見の歴史を表1にまとめたが、ほとんどは動物のウイルスだった。人のウイルスは人かサルを用いなければならなかったためである。最初に発見された人のウイルスは黄熱ウイルスだった。1900年にキューバで、米国のWalter ReedとJames Carrolが黄熱患者の発病初期の血液をベルケフェルト細菌濾過器で濾過したものを3名の志願者の皮下に注射したところ、2名が黄熱にかかったという成績である。米国上院の「故ウォルター・リード大佐の業績と発見」という報告書(9)では、「黄熱は牛の口蹄疫と同様に顕微鏡では見えない非常に小さな微生物により起こる」という結論が述べられている(注)。当時、ウイルスについての知見は皆無だったため、それ以上詳しい研究は行われなかった。なお、黄熱ウイルスの研究が進み始めたのは、1928年、米国のAdrian Stokesがアカゲザルが黄熱に感受性があることを見いだしてからである(10)。, 注:Reedは1902年11月に52歳で死亡した。彼の業績は黄熱ウイルスの発見だけでなく、死亡者まで出した実験で黄熱が蚊により媒介されることを明らかにしたもので、これらの研究で心身ともに疲れ果てていたと伝えられている。米国政府は彼の栄誉を讃えてワシントンにWalter Reed陸軍医学センターを設立し、それを構成する病院と研究所にも彼の名前を付けた。, 黄熱に続いて発見された人のウイルスはポリオウイルスで、オーストリアのKarl Landsteiner(ABO血液型発見でノーベル賞受賞)が1909年に報告した。その内容は、1名のポリオ患者の脊髄乳剤を細菌濾過器で濾過したのち、1頭のヒヒと1頭のアカゲザルに接種した結果、ヒヒだけが6日目に麻痺を起こし2日後に死亡したというものである。(11)。 「博士は明治三十九年東京医科大学(東大医学部の前身)を卒業後英、独の諸大学に研鑽を積み後ち仏国パステール研究所に在りて動物学の泰斗メチニコフ博士(注)の高弟として令名あり。昨年師の逝去後巴里細菌研究所長に挙げられしが最近父君危篤の報に接し帰朝され尚ほ滞京中なり。記者は博士が滞欧十三年間に得たる見識を持ち我現時の医学界に対する所見を敲きて左に連載する事とせり」, 注:メチニコフ(E. Senate, 57th Congress Session. Med., 8, 103 (1928), 11. 肌寒い季節になると流行るインフルエンザ。毎年どこで発生して、どうやって感染するのかご存じですか?今回はインフルエンザの発生場所やどうやって日本にやってくる?どうやって感染する?ということについてまとめました! Ther., 12, 581 (2007), 6. J. Trop. ③ 病原体はインフルエンザ患者の喀痰と血液中に見つかる。 ① インフルエンザは細菌濾過器で除去されない、濾過性ウイルスである。 YamanouchiがLancet誌(注)に発表した論文(1)だった。Yamanouchiは私の親戚だろうから写真をほしいというものであった。, 注: Lancetは英国で1823年に創刊された世界最古で、現在ももっとも権威のある医学雑誌のひとつ。, 残念ながらYamanouchiは私とは縁もゆかりもない。しかし、インフルエンザウイルスの最初の発見者のひとりとして私と同じ名前の日本人がいたということに興味を抱き、しかも帝国大学伝染病研究所(伝研)は、私が勤務していた東大医科学研究所(医科研)の前身である。 【学位】医学博士・授与日付・大正2年2月13日・論文提出・東京帝国大学医科大学教授会審査。 Syndrome.New/Engl. 【論文】学位請求論文題目。 (function(b,c,f,g,a,d,e){b.MoshimoAffiliateObject=a; 岩波新書.
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